人の怒りに耐性がないことを思い出した。正確には、人を怒らせることにである。
昔Twitterで勉強垢か何かを作った時、人に絡みにいって怒らせてしまって申し訳なさと恐怖で頭が真っ白になった。
幸い友人がふざけて別垢で絡んできたと勘違いしたらしく、私の落ち度ではなかったのだが、それから暫く恐怖感でTwitterをさわれなかった。
時が経ちこれを忘れ普通にTwitterを使っていたのだが、フォローした次の瞬間私のことと思われる愚痴のツイートがあった。
私の言い訳癖のせいと思われる。恐怖感からか被害妄想をしてしまうたちなので、なんとも言えないのだが、おそらく私のことである。
それを見た瞬間過呼吸になりかけ、耐性のなさを思い出した。怖くてフォローは外した。
人を無闇に攻撃するような人間は気にする必要はないのだろうが、人を怒らせたという事実の恐怖感がどうしても拭えない。
私が弱いのか、叱られてばかりで育ったからなのか、親と兄との喧嘩に恐怖していた経験からなのかはよく分からないが。
こういう理由を求めて正当化しようとしているのが、彼(彼女?)の反感を買ったのだろうけど、最早私の性なのでどうしようもないのだろう。
多分、私はこうして許しを願っているのだろうな。言い訳するほど相手を怒らせることは理解しているつもりだったのだが、そんなことはなかったらしい。
色々自分語りしてきたが、結局私は私のことなんてちっとも理解していないのだろう。
自分を理解した気になって、語っている。自分を理解したい気になりたいだけなのかも知れない。理由が無ければ、自分を責めるしかないから。
私の自己嫌悪は、結局理由付けして自分を正当化したい自己中心的な行動だったのかも知れない。
そもそも人間なんて皆結局自己中なのかもしれないが。
私の中で内容がひと段落したが、書いてると落ち着けるのでもう少し何か話そう。
そうだな、愚痴の話をもうちょい続けるか。
愛想のいい人間が愚痴を喋ると不安になる。仲良くしている人間も、全て建前で裏では私のことを嫌っているのではないか、愚痴を喋られているのではないかと。
人間完璧で居られないことは分かってるし、どうしても相容れない人がいるのも分かる。
生きてれば不満も溜まるし、建前がない人間もいないだろう。聖人君子はそうそういるもんではないのだ。
それでも人を怒らせるのは怖い。間違いだらけのくせに間違いが怖い。そうして何も出来なくなって一層間違いを重ねるのだ。私はそんな人間である。
ちっぽけなプライド引っ提げて、理由を求めて正当化して、逃げ回って。醜い人間である。
それを自覚しながら指摘されれば深く傷つくのだ。タチが悪い。
自己否定は正当化であって、独りよがりであって、いざ指摘された時の傷を少しでも浅くしようとしている行為なのだろう。
また無限ループに陥りそうだ。いや、そもそも私の行動はいつも悪循環の無限ループか。平常運転かも知れない。
いつまで経っても成長しない。何も変わらず、恩も返さず迷惑だけかけてゆくのだろうな。私は。