メンヘラもどきの雑記

メンヘラもどきsakiの雑記とかなんとか

羨望

 私にも好きな人がいた。4年前、中学の時だ。彼女は努力家で、一つのミスで泣いてしまったり、良い結果を出せると飛び跳ねるように喜ぶ人だった。

 私はそんな全力で努力している彼女に憧れた、羨望した。私にはそんな努力できなかったから。

 

 あの時はまだ精神力も回復していた時で、恥ずかしながら告白なんてものもした。残念ながら振られてしまったが。

 それでも彼女みたいな人になれるように、自信をもって並びたてるようになりたかった。高校に入ってからしばらくは私なりにも努力した。

 まぁ依存していた感じもあるが、久々に本気でなにかに取り組めたんだ。いや、初かもしれないな。それだけ憧れたし、背中を追うだけでも幸せだったんだ。振り返ってもらえるなんて期待はしてなかったけどね。

 

 筋トレもしてみた。結局ひょろがりのままだったが。中学の時も併せて二年くらいはやったんだがな、私には劇的に変われるような努力はできなかったようだ。

 勉強もした。これでも評定平均は4.7とかを維持していた。まぁ頭のいい学校では無かったし、高校三年の後半で病んで全て台無しにしたが。工業系なのでとれる資格もとった。これでも資格は色々持っている。

 結局一番取りたかった資格には落ちたし、周りも私が持つような資格は全然とっている。私には資格の活用すらできない。結局そんなもんなのである。

 あの資格に受かっていたら変わっていたのだろうか。そんなこと考えても仕方ないな。

 

 でももう疲れてしまった。そしてすべてを無意味にしてしまった。応援もされたのに。私の学校から見ればレベルの高い大学も目指していたし、そのために講習してくれた先生もいた。

 そんな期待も裏切ってしまって、合わせる顔がない。彼女にも、周りにも。私は最低だ。

 でも、さんざん厳しくしてきたのに私が折れてしまってから、お前なら絶対受かると思ってたのにとか、これからどうするんだとか、もったいないなとか優しい言葉をかけないでほしかったな。つらくなるし、申し訳なさがつのるばかり。

 厳しいのも、私のためだとはわかってるんだけどさ。私はその優しさに返せるものがなにもない、空っぽな人間だ。

 

 こんな私がいた形跡をすべて消してしまえればいいのに。私がいなかったことになればいいのに。そしたら、私にくれた優しさを、愛情を、無駄にしなくてすむ。お金もね。

 私なんていなかった方がよかったのだ。そしたら何かを裏切ることも、迷惑かけることも、こんな悩むこともなかったんだ。私には周りも、自分自身も不幸にすることしかできない。

 いや、昔はよかったのかもしれない。生まれたときはきっと喜んで貰ったのだろう。私の成長も喜んでもらえていたのだろう。でも結局こうなってしまったのだ。過程なんてどうでもいい。終わりよければそれで良し、終わり悪けりゃ全部無駄なんだ。

 

 虚しい。大学も行きたかった。なにかを返したかった。いい子でいたかった。正しくありたかった、正しい人間になりたかった。でも私は私で、こんな人間だったのだ。結局目指したところで、憧れたところで、間違った人間は間違った人間なのだ。私は間違いだらけだったのだ。

 生きる意味も分からなかった、昔から。考えて考えて、幸せになれればいいかと思った。幸せになりたかった。でも疲れてしまった。幸せってなんだ、いつになりゃなれる?私は愛された、幸せものではあるのだろう。でも幸せを感じれないんだ。 

 

 幸せってのも酷いよな。幸せじゃなければ不幸なのに、不幸じゃないのは幸せとは限らないんだから。

 幸せは私の手から離れていくし、幸せを目指すのも疲れてしまった。生きる意味がないから幸せを目指したのに、私はどうすればいい?

 いや、わかりきってるはずなんだろう。まっとうに、真面目に生きればいいだけの話なのだろう。どうにかしようと努力すれないいだけの話なんだろう。わかってるはずなのさ。

 生きる意味とか、幸せとかそんなこと考えて、言い訳してるだけなんだろう。弱音を吐いてるだけなんだろう。そんなちっぽけな人間なんだろう。

 

 どうでもいいか。いい加減死なないとな。

南条あやさん紹介

 皆様、南条あやさんという方をご存知でしょうか。

 1990年代にいたメンタルヘルスネットアイドル(アイドルと言うとイメージが違いますが)です。1998〜1999年の、僅かな時期だけ日記を投稿していました。

 重度不眠症と、いつでもどこでもリストカッターを名乗るほどの自傷癖を持った方で、貧血で入院するほどでした。

 

 彼女は日記を公開しはじめてから9ヶ月、僅か18歳で自殺してしまいましたが、その文才溢れた日記にファンも多くおり、葬式には多くのファンが訪れ、日記は書籍化、メモリアルサイトの作製もなされました。

 

 メモリアルサイト

https://web.archive.org/web/20030805035852/nanjouaya.com/hogoshitsu/memory/index.html

 

 メモリアルサイトでは、彼女の日記やイラストなどが載っております。

 

 私は彼女の死後に生まれた身ではありますが、彼女の文才に魅了されたファンの一人です。

 私が何故ブログを書き始めたかは覚えておりませんが、きっと彼女に影響された所も大きいでしょう。

 

 日記を最後まで読んだ時、後書きとして彼女の自殺の知らせや死因、追悼の言葉が書かれており、理解していたにも関わらず大変ショックを受けたのを覚えています。

 ですが、それほどに彼女の文は良かったと言う事ですから、是非ご一読のほどを。

 

耐性

 人の怒りに耐性がないことを思い出した。正確には、人を怒らせることにである。

 昔Twitterで勉強垢か何かを作った時、人に絡みにいって怒らせてしまって申し訳なさと恐怖で頭が真っ白になった。

 幸い友人がふざけて別垢で絡んできたと勘違いしたらしく、私の落ち度ではなかったのだが、それから暫く恐怖感でTwitterをさわれなかった。

 

 時が経ちこれを忘れ普通にTwitterを使っていたのだが、フォローした次の瞬間私のことと思われる愚痴のツイートがあった。

 私の言い訳癖のせいと思われる。恐怖感からか被害妄想をしてしまうたちなので、なんとも言えないのだが、おそらく私のことである。

 

 それを見た瞬間過呼吸になりかけ、耐性のなさを思い出した。怖くてフォローは外した。

 人を無闇に攻撃するような人間は気にする必要はないのだろうが、人を怒らせたという事実の恐怖感がどうしても拭えない。

 

 私が弱いのか、叱られてばかりで育ったからなのか、親と兄との喧嘩に恐怖していた経験からなのかはよく分からないが。

 こういう理由を求めて正当化しようとしているのが、彼(彼女?)の反感を買ったのだろうけど、最早私の性なのでどうしようもないのだろう。

 

 多分、私はこうして許しを願っているのだろうな。言い訳するほど相手を怒らせることは理解しているつもりだったのだが、そんなことはなかったらしい。

 

 色々自分語りしてきたが、結局私は私のことなんてちっとも理解していないのだろう。

 

 自分を理解した気になって、語っている。自分を理解したい気になりたいだけなのかも知れない。理由が無ければ、自分を責めるしかないから。

 私の自己嫌悪は、結局理由付けして自分を正当化したい自己中心的な行動だったのかも知れない。

 そもそも人間なんて皆結局自己中なのかもしれないが。

 

 

 

 私の中で内容がひと段落したが、書いてると落ち着けるのでもう少し何か話そう。

 そうだな、愚痴の話をもうちょい続けるか。

 

 愛想のいい人間が愚痴を喋ると不安になる。仲良くしている人間も、全て建前で裏では私のことを嫌っているのではないか、愚痴を喋られているのではないかと。

 人間完璧で居られないことは分かってるし、どうしても相容れない人がいるのも分かる。

 生きてれば不満も溜まるし、建前がない人間もいないだろう。聖人君子はそうそういるもんではないのだ。

 

 それでも人を怒らせるのは怖い。間違いだらけのくせに間違いが怖い。そうして何も出来なくなって一層間違いを重ねるのだ。私はそんな人間である。

 

 ちっぽけなプライド引っ提げて、理由を求めて正当化して、逃げ回って。醜い人間である。

 それを自覚しながら指摘されれば深く傷つくのだ。タチが悪い。

 

 自己否定は正当化であって、独りよがりであって、いざ指摘された時の傷を少しでも浅くしようとしている行為なのだろう。

 

 また無限ループに陥りそうだ。いや、そもそも私の行動はいつも悪循環の無限ループか。平常運転かも知れない。

 いつまで経っても成長しない。何も変わらず、恩も返さず迷惑だけかけてゆくのだろうな。私は。

 

 

雪降りに死を見る

 高校生活が終了し、めでたくニートとなりました今日この頃。窓を開けたら雪が降っておりました。

 私が真っ先に呟いた言葉は『凍死しやすそう』でした。我ながら酷いもんですね。もう暫くは死なない予定の筈なんですが、常に死は頭にちらついついる。

 そもそも私に自殺する気力も勇気もないのですけれど。

 

 ついでに卒業式の話でもしましょうか。

卒業式では私のクラスメイトが答辞を担当しました。なんか今までありがとうとか、高校生活楽しかったですとかを卒業生が話すあれですね。

 

 それを読み上げる中走馬灯のように思い出が巡ったらしく、その人は途中で涙を流し始めました。

 尊敬物ですね。私は何かのために涙を流せるほど熱中したり、思い入れを深いものがあった試しがありません。

 中学時代のクラスは好きでしたが、その別れの時も泣くことはありませんでした。もちろん悲しみがないわけじゃないのですが。

 

 私の涙は嘆きの涙ばかり。自己中心的な涙とでもいいましょうか。まぁ涙なんて言ってしまえば全部そうなのでしょうけど。

 

 私にもそんな熱中できる何かがあれば違ったのでしょうかね。

 いや、そもそも私は何かに熱中出来る人間性じゃないのでしょうね。あまりにも精神が弱すぎる。

 生きがいを求めている時点で、生きがいを持てるような人間ではないのかも知れません。

 そんなこと言ったら、あまりにも希望がありませんね。

 

 まぁ、希望があったとしてもそれが絶対にいい事とは思えませんけど。あぁでも人間は希望を抱いてる時が幸せなんでしたっけ?ドーパミン的に。

 

 いっその事ディストピアであればいいのに。完全管理された世界でも、幸せならばそれでいいじゃないか。自由であることは、それだけ悩みを生むのだし、望みを知らなければ望みが叶わぬことを嘆くこともない。

 

 そんなことを言ったら、極論死こそ救いという話になりますね。

 寒くて手が震えてきたので終わりますかね。これ以上思考を言語化する集中力がないのもありますけど。

 

 

 

 

ガタガタ体

イライラしすぎて暴食したくなったけど、暴食する体力が無かった。

体のあちこちが痛いし、全体的に頭がくらくらしている。

 

金がなさすぎて電車に乗らず歩いて移動してるせいであまりにも疲れている。

雪のせいで自転車が使えん。君死にたまへ。

学校いって帰って寝て、朝だけ食べて学校に行く。繰り返し。

後2日で終わるからいいんだけどさ。

いや、将来暗黒色だしよくはねぇか。

 

最近イラついてるか泣いてるかぼーとしてるかしかしてない。

何か対してイラついてるでもないんだけどね。

ただストレスから虚空に愚痴を吐いてる。そもそも性格的に人に怒りをぶつけれなくもあるけど。

 

眼球をくり抜いて握り潰したい。実際眼球取り出そうとしたらどれくらい痛いんやろか?

案外痛くなさそうと思ったけど、目に香水入った時くそ痛かったから痛そうやな。

 

血も抜きたいけどそれ以上に眠い。ただひたすらに眠い。

毎日3,4時に帰って、そこから5時くらいまで寝てる。まぁ起きてたってやる事もないか。そんな気力なんてない。

 

空虚な人生だこと。

誕生日にこんなこと書いてるのもまた。

 

あぁそうだ。

今月のアクセスが300達成とともに、累計が3000になりました。

ほとんど私の愚痴で構成されてるこんなブログにお付き合いいただき、ありがとうございます。

 

眠いし今日は短めに終わります。

おやすみなさい。また嫌な明日で。

 

 

 

 

 

 

not人間。not生物。

最近体がバグ塗れだ。

 

眠くないのに寝るし、眠いのに寝つきは悪い。

腹は減ってないけど惰性で飯は食べるし、お腹が減ってても少量食べて後は吐きそうで食べれない。

美味しさもあまり分からない。

今でもほんとに美味しいものを食べれば美味しいと思えるのかも知れないが、最近食べたものでは食べやすいか否かしか感じない。

 

基本的に食べ物はとりあえず腹に入れてるだけであり、無理やりである。

昔美味しいと思っていたはずのものは、その無理やり間がなくなるだけ。

美味しさのレベルが全て一段落ちた感じだ。

 

終わってる生活してるせいでペットボトルの蓋も開けれなくなり始めた。

体重も2kgほど落ちた。元々死にそうな体と言われてるのにである。

逆にこんな生活でも2kgしか変わらないという事なのかも知れないが。

 

odも自傷もめんどくさくてやらなくなったし、自己嫌悪もあまりしなくなったが、逆に希死念慮は強くなったように感じる。

どちらかというと、生きなければならないという思想が消えてしまったの方が近いか。

 

少し前よりかは娯楽をできるようになったが、楽しむというより、ただ暇つぶしである。

 

結局人生とは死までの暇つぶし。そんな考えである。

 

生きてても迷惑だし、死ぬのも迷惑。

存在ごと消えてしまえればどれだけいいか。

 

話が纏まらない。

人との会話がめっきり減ったからだろうか。

 

人生全て惰性で過ごせればいいが、人生は楽しさも苦しさもある。思考を、感情を動かさなければならない。

無機質に生きていきたい。もしくは死にたい。

何も感じたくない。考えぬ葦でありたい。

 

幸を覚えるほど後の不幸は際立ち、幸は埋もれ色褪せる。

不幸でないはずのものでも、不幸に感じる。

 

神経は削れるばかりで、増えはしない。

生きるほど純粋さは無くなり、虚勢は増えていく。

 

私は崩れゆく足場の上で何も出来ないでいる。

新たな足場を作ることも、足場を補強することも、できるはずなのに。

 

きっと皆何かを積み上げ、大きくなるのだろう。

でも私は小さくなるばかりで、2歩歩いて3歩下がるを繰り返している。

最近は疲れてそれすらしなくなり、ただ落ち続けている。

そのままどこかに消え失せたい。

 

私はいつからこうなったのだろう。最初に道を間違えたのはどこだったのだろう。

過去に縋りたくても、記憶は風化していくばかり。

 

ゴミみたいな人間。

許容

私は寛容であろうと努めてきた。

どんなにイラっとしても、不快に思ったとしてもきっとこう考えてるのだろうとか、あれこれ理由をつけて許容してきた。

 

そいつが正しいとは思っていない。でもこう考えているのなら、こういう性格なら仕方ないのではないかと、相手を正当化してきた。

 

私のこの行動の根幹は自分を許すためなのではないかと最近気づいた。

他人を許容することで、過去の過ちを、恥を、失敗を許容できるようにしているのではないか。

相手を否定するだけ自分を否定するような気がして、だから私の精神は自己防衛的に他人を許容しているのではないかと思う。

それで怒りを覚えた自分を間違いとし、自己否定が始まるのは本末転倒だが。

 

つまりは私は全てを許容するために、自分が間違っているという前提で生きているのだ。それで結局自分の過去も今も許容できていないので無駄に精神をすり減らしているだけになっているのだが。

 

だからと言って誰かを否定する資格があるとも自分にあると思うことはできないので、結局私は自分が間違っているという前提を持ち続けるしかないのだが。

 

相手を否定していいという事は、相手の全てを知らぬ限りないと思っている。

人間環境に作用される。

 

自分が間違っているという前提があるせいで、私のなかにはありとあらゆる思想が混在している。といっても、共存している訳でもなく、思想の蟲毒というのがしっくりくるかもしれない。

 

性善説性悪説みたいに矛盾したものも同時にあり、互いに否定しあっている。

さらに言えば善悪なんて主観でしか存在しえないという思いもあるし、エゴであると思っている。

おかげで私は自分の思考自体を無限に否定することができる。

矛盾した思想が同時にあるのだ、そしたら否定のキャッチボールが始まるのは道理である。しかも1on1じゃなく、大量に派閥があるのだ。まさに蟲毒である。

まぁ、そのくせ減る気配はないのだが。蟲毒らしく、最後の一匹まで食い合ってはくれないのだ。それどころか新たに生まれるまである。

 

思考がこんがらがってきたのでここまでにしよう。

 

そういえば、ここのサイトの流入googleメインなのだが、どうやって見つけているのだろう。私なりに検索してもたどりつけない。サイト名そのままいけばいけるのだけれどね。最初に見つけてくれている方はどうやって見つけているのだろう。

なんかこういうブログを見つけやすい検索方法があるのだろか、あれば教えてほしい。